自意識の強いブログ

たまに読んでください

「流行」の差別問題について、不寛容な寛容さと寛容な不寛容さ

 

この文章は、誰にも読まれることを意図していない、それにも関わらず誰かが読んでくれることを期待している、といった類の覚え書きである。

 

というよりはイライラしてるからどこかで瀉血したい、という気持ちの方が強いかもしれない。

 

それはガキ使に端を発して今では猫も杓子もおしゃべりをしてる差別問題のことだ。

 

そもそも何かしらの美徳を掲げて集まった集団というのは、早晩その目的を手段に反転させることによって堕落する。

つまりその美徳を達成するために存在している集団は、存続するために美徳を振り回すようになる。

それは美徳という仮面をつけているためにかえって最もいやらしい悪徳に身をやつす。

 

そしてその集団はまもなく敵を自らの手で作り出すだろう。

美徳集団はおのれの存在理由として悪を要請する。

この地点で美徳と悪徳は今日の友として結託する。

 

あらゆる美徳の中で寛容さはとりわけこうした性格を持っているように思われる。

 

今回の騒動で例えば人権団体が抗議しているのかどうかは知らない。

でも差別問題に一家言あることに得意になっている人はとても多い。

 

そのような人は人より進んだ人権意識を持っていることを誇っているかもしれないが、最も不快なのはこうした人が自分だけは安全地帯にいると思っていることだ。

 

彼らは日本が人権意識が遅れていることを、今回の件がアメリカでも非難を巻き起こしていることなんかを引き合いに糾弾する。

差別のような問題が地球規模で考えなければならないというのは、おそらく言葉の真の意味でそうだ。

加えて差別かどうかはそれを受けた人がどう思うかに懸かっている、ということもたぶん間違っていない。

 

しかし、日本のコメディアンが黒人のものまねをするために肌を黒く塗ったからといってアメリカにいる黒人が侮辱を受けたと感じたとすると、最も差別意識が染みついているのは当の黒人に他ならない。

 

自分の肌の色に負い目は感じているような人たちのいる暗い歴史を抱えた国の人権意識が最も進んでいるというのは正しいだろうか?

アメリカナイズとグローバライズを混同してはいないだろうか?

 

もちろん差別意識を持っていないことは現代では免罪符にはならない。

差別意識がなくとも差別はあるからだ。

 

でもそれはガキ使のせいではない。

もはやガキ使はスペクタクルとして、みんなの暇つぶしとマウンティングの話題として消費されてしまっているからそこには何も残っていない。

 

差別は根が深いとみんなが思っている以上におそらく根が深い。

おそらくその根元において差別と寛容さは一致する。

それは私たちの存在の一条件ですらある。

 

だから私たちは寛容さを語って不寛容になる前に、自分たちの日々の寛容な不寛容さにまず目を向けなければならないのではないだろうか。

 

 

けして振り返ってはいけない大学生活の話

 

皆さんごぎげんよう!

わたしは今卒論を提出し無事大学を卒業できそうでホッとしています。

 

そして春からの新生活...

心が躍りません。

 

だって進路が決まってねーんだもん。

でも問答無用で大学は卒業してしまう訳で、後ろがつっかえて海に落ちそうな氷の塊みたいになってる訳で。

 

こういう状況で大学生活を振り返るというのは非常に危険です。テレンス・リーも言っていました。

 

「大学生活けして振り返るべからず」

 

振り返っちゃダメだって言われてんのに振り返った人が今までどんな目にあってきたか、枚挙に暇がないくらいです。

塩の柱にされたり、嫁さんに追っかけまわされたりね。

 

でもアカンと言われたらやりたくなるのも人情。

「絶対に笑ってはいけない大江戸温泉物語」みたいなやつも絶対に笑わなきゃいけないってことだと多分真顔で年を越すことになりますからね。

 

だからぼくも振り返る。パッ!と見てパッ!と顔戻すから。

行くぞ...行くぞ...

 

 

・・・!!!

 

 

追記

長い夢を見ていたようだ。

 

大学生活は存在しなかった。あるいは大学生として意義深いことを一切しなかった。

大学生活はからっぽであり、それが現状のまぎれもない原因であった。

 

振り返るのが恐ろしかったのは何かがあったからではなく何もなかったからだった。

 

目の前で途切れているかに見えた道は道ではなかった。

気づけばぼくは荒野に放り出されていた。そもそもぼくは歩いていたのか?

 

「覚悟とは暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開くことだッ!」

 

いやうるせえよ。

院試落ちそうなんだよ。今の研究室テキトーに選んじゃったんだよぉ!

 

院試まであと10日

覚悟はいいか?オレはできてない。

 

 

羽生善治・永世七冠というおめでたいニュースの不快感について

 

どうやら半年ぶりの更新らしいです。

ブログなんか書く暇があるなら卒論を書けと良心がささやいていますが、羽生さんが竜王を奪取したというニュースが本当に不愉快だったので久しぶりに書こうと思ったのです。

 

そもそも永世七冠というのは空前絶後のチートな業績で将棋ファンは皆今日のこの瞬間を待ち望んでいたことでしょう。

 

なのでぼくはその情報をシャットアウトしていました。

なのに!家に帰るとやはり将棋ファンの父親に開口一番「羽生が勝ったで!」と言われてしまい、完全に不機嫌になってその足でカタカタやってるわけです。

 

ところでぼくは渡辺さん(羽生さんの対局相手ね)の熱狂的なファンではありません。

じゃあなんで半年ぶりにブログを更新するくらいカリカリしているのかというと、その理由はまさに父親とのやりとりに現れているのですが、

 

みんなが喜んでいるから、です

 

おいおい、あまのじゃくはよしてくれよ...と言われそうなのでぼくのモヤモヤ感をもうすこし説明することにします。

 

みんなが喜ぶことは、みんなが喜ぶはずだ、とみんなが思っている 

ということに対する息苦さってとこでしょうか。

(ぼくの父親も、当然ぼくが喜ぶと思って声をかけてくれているわけですね。)

 

もちろん問題は、最初と三番めの「みんな」と二番めの「みんな」が違うということです。

 

羽生さんが永世七冠を獲った!これは将棋ファンに限らず——というよりぼくには将棋ファン以外の方がむしろそうだと思えますが——すごいことであり、おめでたいニュースです。おそらく夕方のニュースはこの話題で持ち切りだったことでしょう。チッ‼

 

 でも当然みんなと言っても1億2千万人全員という訳ではありません。

渡辺さんは悲しんでいるでしょうし、その家族も悲しんでいるでしょう。

羽生ファンほどはいないだろう渡辺ファンも悲しんでるでしょうね。

 

そしてぼくのようなあまのじゃくも悲しんでいます(ここでツッコんでください)

 

ところが二番めの「みんな」、これは想像上の「みんな」な訳ですが、そこからは悲しき少数者はごっそり抜け落ちてしまっています。南無三!

 

「お互いのためにそうした方がいいと思うの...」と別れを切り出す女性、

ビアンカと結婚するのが人情だと思っているゲーマー、

人道的見地から強硬手段に出るのもいとわない捕鯨反対派の欧米人、

4年に一度スポーツからもらった感動が話題を独占する朝の教室、

パリでテロが起きたときだけ三色にライトアップする東京やワシントン、ロンドン...

 

良心が常に強いる犠牲に無頓着であるという点で、これらは全く変わりません。

 

こうした純心に比べれば、テロリストの悪意なんかはある意味ではかわいらしいくらいです。

 

アームストロング船長他1名が月面をキャッキャウフフと駆け回って全米(これもなんて暴力的な言葉なんでしょう)が熱狂していたとき、コリンズ司令官は宇宙船が飛んでいかないようにひとり留守番していたわけです。

二十世紀少年で読みました。

 

でもまあコリンズ司令官に感情移入するような人間は悪趣味なマスクを被ることになるのであって、要するにロクな人間にはなりません。

 

ショパンの革命のエチュードを聴いて「左手の方が打数が多い!」と嬉しくなったり、ヒップホップトリオのラップを聴きながらちゃんと全員のパートがあるか最後まで気が気じゃなかったりする人はぼく以外にあまりいないんじゃないかと思います。

 

こうして話が自分のところに戻ってきた以上もうグダグダ続けるべきではなさそうです。

冷静になってきたので卒論を書こうと思います。ぼくはまともに卒業したいので。

 

それではまた。

 

追記。「あんたにはもううんざりだわ!」って言ってくれた方が逆にすっきり別れられるよね