自意識の強いブログ

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ぐいぐい引き込まれる現代的ピカレスク

哲学者ハイデガーは、おのれの最も固有な可能性-それは各自の死の可能性のことですが-を将来に先駆けて引き受けることが、本来的なあり方であると言っています。

 

世間一般の人々は通例自分が死ぬことを真面目に考えていませんし-終活が「ブーム」になっているくらいです-、世間的常識に流されて生きています。

 

この世間的常識というのは何も「高給取りになるのが素晴らしい」とか「老後のことを考えて安定感のある人生を設計しましょう」というような考え方に限りません。

 

「好きなことをするのが幸せだ」とか「知り合いでシコったらめちゃくちゃ出た」みたいな一見革新的な主張こそ常識によって籠絡されているということがあるものです。

 

要するに何を選択しようとしても「これは果たして本当に私の本意だろうか!?はにゃにゃ!?」と疑ってみることができる訳です。

 

こうした冷めた目を持った人-覚めた目と書くのは気が引けました-は、往々にして不幸です。

それは悩んでなかなか行動に移せないハムレットみたいなものかもしれません。

 

そこでこうした不幸に対して第一の反応が現れます。

つまり「もう何も考えない」ということです。

 

わたくしは生まれてこの方二十余年、まさにこの無-思考法によって世間を渡り、

先日ニートになりました。

 

心頭滅却すれば何とやらと言いますが、いくら涼しくても足元がジュージュー焼けてりゃ世話ない訳で、気がついたらかくも香ばしいニートがこんがり出来上がっていました。

 

自分では結構優秀だと思っていたんですが-ペーパーは通ってたので馬鹿ではないかもしれません-、自分を過信しすぎて他人を頼らないと痛い目に遭うということがよく分かりました、卒論の話ですが。

 

加えて碩学のお歴々はおそらく「ぼくが何も考えてない、どころか考えないようにしている」ということを看破されたのではないかと思います。

 

そういうわけでぼくはどうしても将来のことを考えなきゃいけなくなりました。

ポジティブに捉えれば、院進する前にこういう機会ができたのは不幸中の幸いかもしれません。

 

そもそもぼくはアカデミックな世界に向いているんだろうか?

たとえば学哲の研究者として何十年とやっていくにはぼくはあまりに感覚的なタイプのような気がする、好きなんだけどね。

 

書くことだけは好きだしエッセイストになろうかな、エッセイストってなんだよって感じだけど。オットセイには似てるよね。

 

それにあの面接の雰囲気、入院後の生活等々に思いを馳せると怖気をふるってしまう。

軽いトラウマです。 

 

結局ぼくの才能はどこにあって、自分は何に向いてるんだろうか。

それに才能が全くなくて、何にも向いてないという公算が一番デカイ。こういう悲劇は現実世界ならではだそうです。

 

実家が裕福だったら親の脛をかじり倒せたのかもしれないけど、でもこれはやる気が出ない言い訳かな(画像はイメージです)。

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 でも就職するならするでとっとと動かないといけないわけで(しないけど)、くよくよ考えてる場合じゃないんだよな。

 

はあ〜〜この状況を打破するウルトラCはないものか。

 

最もベルクソンが言ってるように自由っていうのは目の前に並んだ選択肢ではなくて、流れの中に飛び込むことでそのつど体現されるものなのかもしれない。

 

「案ずるより産むが易し」って言葉を考えた人は偉いね、昔は人の名前だと思ってたけど。

 

 成功した人っていうのはみんな苦労してて、その苦労を美談にするけど、成功したから美談にできてる訳で、死ぬまで成功しなかった人も多分いる、めちゃくちゃいると思うんだよね。

 

でも世間はそういう人のことはけして知らなくて、まず「とにかく苦労しろ」「挫折は成長の糧だ」だもん。ファッキューだよファッキュー。ファック!ユー!

 

・・・

 

途中から完全に愚痴になって落とし所が見つからなくなってしまいました。

 

ぼくが今回本当に話したかったことは地方創生についてだったんですが。

 

まあそれは政治家に任せて、ぼくはアプリでなめこを育てることにします。

 

追記)そもそも大学卒業できんのか?